21話 残響

空を支配していた不気味な音楽は止み、後に残されたのは血と砂埃の匂いだけだった。
フェインが去った空を見届けていたリナは、ふぅ、と一つ息をつくと、地上で待つウォルフラムとゲイルの元へと箒を降下させた。
「お二人とも、助かりました!」
感謝の言葉と共に、彼女は慣れた様子で箒からぴょんと飛び降りる。しかし、その次の瞬間。彼女の膝が、かくん、と意志に反して折れた。
咄嗟に地面に手をついたことで、無様に倒れ込むことだけは避けられたが、一度緩んだ身体は鉛のように重く、立ち上がることができない。
「おい、大丈夫か」
声がしたかと思うと、ゲイルがゲッコーから飛び降り、彼女の目の前に屈み込んでいた。彼はリナを支えて立ち上がらせると、彼女は照れくさそうに「てへへ」と笑った。
「すみません。着地も出来ないなんて、恥ずかしいところを見られちゃいました……」
そう言ってポリポリと頭を掻く彼女のローブに、赤い染みが滲んでいるのをゲイルは見逃さなかった。彼は眉をひそめると、彼女の意思も確認せず、その華奢な身体をそっと横抱きに抱え上げる。
「ちょっ、自分で歩けますから!」
突然のことに驚き、リナが慌てて抵抗する。しかし、ゲイルは彼女の抗議を意に介さず、呆れたように言った。
「そんな傷で歩くもんじゃない。ギルドに行けば処置出来るから、少し大人しくしてろ」
緊迫した戦闘時とは違う、静かな物言いだったが、冷静で真っ当な力強さがあった。リナはそれ以上何も言えず、大人しく彼の腕の中に収まった。
その一連のやり取りを、ウォルフラムは数歩離れた場所から、ただ黙って見ていた。
リナに駆け寄るべきなのは、契約者である自分のはずだ。頭では分かっている。だが、足が動かなかった。
彼女の白いローブに滲む、赤い血の染み。それが彼の目に痛いほど焼き付く。
自分の精神的な脆さが、彼女をここまで消耗させ、傷つけた。あまつさえ、自分は彼女と、そして今彼女を抱きかかえている男にまで助けられたのだ。
(……また、俺のせいだ)
ギリ、と拳を握りしめる。彼女を支える資格など、今の自分にはない。その罪悪感が、彼の足を地面に縫い付けていた。
ギルドでは慌ただしく人が行き来していた。ギルドマスターが声を張る。
「動けるハンターは残ってる脅威がないか、探して受付嬢セレナへ報告せよ!被害と戦闘データの報告は鑑定所のレオまで!怪我人は研究所のマリアのところへ連れて行け!」
リナの手当ては研究所へ行くまでもなく、ギルドの受付の裏にどかどかと踏み入れたゲイルが備品を取り出してあっという間に処置してしまった。
「あ、あのゲイルさん?ここって勝手に入って良いんです?」
リナが困惑する。
「いや、本来はダメだが?」
平然と答えるゲイル。リナは唖然として一瞬言葉に詰まった。
「…その割には…どこに何があるか分かってるみたいですね」
「経験や実績のあるハンターなら割と裏にも入ったことがあるんだ。今は緊急事態だし、どうせ研究所ではここにある備品を無料提供してマリアが処置してるんだ。出来る者が彼女の手間を省いてやってるだけ許されるだろう。」
「そうですか…。ゲイルさんは相棒のゲッコーとも息ぴったりでしたし、私の計算よりずっと優秀でしたね。」
リナが述べたのは純粋な感想だった。
「…努力してきた。さあ、次はレオへ報告だ。」
ゲイルはフンと鼻を鳴らし照れ隠しのように呟く。
受付前で待っていたウォルフラムと合流後、珍しく彼の方からリナへ寄ってきた。彼女にだけ聞こえるように、小声で言った。
「話がある。…長くなるかもしれん。」
リナも小声で返す。
「私も確認事項があります。多分同じようなことでしょう。ギルドへ詳細な情報を渡すのは、二人で打ち合わせてからにしましょう。」
約束を取り付けたが、一旦三人は外にいるレオの元に来ていた。傷の処置を終えたものの、頬にテーピングをしてローブに血が滲んだままのリナを見てレオが慌てる。
「り、リナさん!?戦ったんですか?」
「……ちょっと?」
リナは心配させたくないものの、嘘もつけずに曖昧な返事をした。
「無茶しないでください!戦闘は専門じゃないんでしょう…?」
レオは相変わらずオロオロしながら彼女を観察した。
「レオさん、そんなことより、今回の騒動の首謀者について、分かることがあります。ですが、私たちも情報を整理する必要があって、すぐには報告出来ません。」
それからゲイルが見たことをある程度話し、リナの消耗もあるので今日は休み、明日開かれるギルドの会議に参加することとなった。
外は既に暗くなっていた。
ギルドの運営する宿は近場にあったが、その日は混み合うからと、ウォルフラムとリナは街の一角で野宿することにした。瓦礫に布を張っただけの、簡易な拠点を設けて近くに火をおこす。
至る所にアンデッドの残骸が転がり、街は異臭と不気味な雰囲気に包まれている。
焚き火を囲んだ二人は、長い間黙っていた。
リナとウォルフラムの間には重く、気まずい沈黙が流れている。 フェインが口にした「王子様」という言葉。ウォルフラムの過去に触れるその一言が、見えない壁となって二人の間に横たわっていた。
(言わない方が、安全だと思っていたが、俺も知らないところから、急に敵が湧いてきた。)
ザハラの街やリナが危険に晒されたという事実は、自身の考えが甘かったことを彼に痛感させた。
(まず、兄上のやり方ではない。では何故俺を狙う?誰がなんのために…)
考えてもわからない。しかしこれ以上、彼女を自分の運命に引きずり込むことは許されない。
彼は、彼なりの誠意と、彼女を守るための唯一の方法として、自ら関係を断ち切る決意を固める。
重い口を開いたのは、ウォルフラムだった。
「リナ。お前との契約は、ここで破棄させてもらう。」
その声は、感情の乗らない平坦な響きだった。リナは静かに彼の言葉の続きを待った。
「お前に黙っていたことがある。この情報の不提供は、契約違反になるだろう…。フェインという男が言っていた通りだ。俺の正体は、アークライト帝国元第二王子、ウォルフラム・シュタイン。呪いを制御できず国を追われた身だ。奴の目的は分からんが、今後も俺を狙って現れる危険がある。お前をこれ以上、俺の都合に巻き込むわけにはいかない」
それは、彼がリナに見せる、初めての自己開示。 しかし、リナの反応は、彼の予想を裏切るものだった。
彼女は、彼の告白に驚きも、同情も見せない。ただ、どこまでも冷静な研究者の目で彼を見つめ返すと、きっぱりと言い放った。
「まず、私からも言いたいことがあります。敵は…魔法使いでした。私の専門です。それなのに私のあの立ち回りは、後手後手でした。契約者としての仕事が出来なかったのは、私に責任があります。危険に晒したのは、私の方なんです。」
実はあなたの素性を知っていた、とは言わなかった。
彼女はウォルフラムの顔を伺って、何かを思い出したように再び目を背けた。
「…ごめんなさい。何を見たかは知りませんが、辛かったでしょう。」
その言葉が指しているのは、ウォルフラムが見た幻覚のことだと彼にも分かった。言いようのないざわつきが自分の中に満ちる。
リナは続けた。
「その上で、先程の言葉ですが、同情でも私の責任感や罪悪感でもなく、私の都合でお断りします。」
鋭くハッキリ言葉にすると、リナがずいっとウォルフラムに寄ってきた。
「敵は魔法使いでした。そして魔法使いは、本来私の故郷の外にはいないとされています。何故なら結界があって、私たちは出られないからです。」
勢いがついたリナは段々と早口になる。
「でもフェインはいた。彼がまたあなたに接触してくる確率は非常に高いと推測します。私にとってはこれは故郷の呪いへ対抗しうる手がかりです!つまり…!」
ぐいぐい寄ってくるリナにウォルフラムは後ずさった。
「あなたは、私の欲しい、魚のエサです!」
「…………は?」
ウォルフラムはしばらく目を丸くして考えていた。
「あなたに逃げられると困るんです!」
今度は彼女に両腕を掴まれる。
「この話はこれで終わりで良いですね?」
再び、ウォルフラムは何も言えなくなった。
少し後、 リナは街のあちこちに落ちたままのアンデッドの残骸の中から、まだ新鮮な素材を選んでゴーレムを夜番に立てた。蠍のモンスターに見守られながら、二人は明日の会議でギルドへ提供する情報をレポートにまとめていた。
「まあ、こんなものか。以前この街にいた時はどうせ死ぬと思って隠す気もなかったが、今は俺の素性は提供できない。なぜか分からないが、狙われている事実は開示しつつ……」
話の途中で、ふとおとなしいリナに気づく。
「寝たか。」
無理もない。相当消耗していたはずだ。
「この街への協力は、義務でもないだろうに。真面目な奴め」
ウォルフラムは2冊重ねた魔導書の上で、電池切れを起こしているリナを横に直した。
(冷たい…)
彼は、彼女に触れて少し驚いた。そういえば始終寒そうに腕を抱えていた。
(日中の、フェインの技が影響してるのか)
思い返すと、再び無力感に追われた。しかし考えても仕方ない。
彼女の隣に、少し距離を置いて横になり、側にあるのブランケットをとって彼女を包むように丁寧にかけた。
目を閉じると昼間の幻術が瞼の裏に焼き付いて離れない。
(俺が離脱して、彼女は怪我をした…)
自責の念が胸を締め付ける。その時、自身の内側から、あの忌まわしい呪いの声が囁きかけてきた。
『無駄な苦しみだ。考えるのをやめて、体を渡して消えれば楽になるものを』
ウォルフラムは苛立ち紛れに、強く目を開けて星を睨んだ。
(ふざけるな。そんな事をすれば、あの惨状が現実になるだけだ…)
その時だった。仰向けの彼の背後、影の中からぬるりと黒い手が伸びてきた。
「なっ…!?」
黒い手は複数で束になると、彼の隣で眠るリナへと襲いかかる。あっという間に、少女の華奢な体を乱暴に押さえつけ、黒い拘束へと染めていく。
「んっ…」
リナの苦そうな、小さな声が聞こえた。 ウォルフラムが息を飲み、目を見開いた、その瞬間。
ドッ
それは、腹の底に響くような衝撃ではなかった。 脚に走る、意外なほどの小さな、しかし確かな痛み。
彼女のいつもの、寝相による“蹴り”が、ウォルフラムの脚にクリーンヒットしたのだ。
(……夢、だ。寝てたのか、俺も。)
衝撃で、悪夢は霧散する。 気づけば、目の前にあったはずの黒い手はなく、自分が額に汗を浮かべ、呼吸を荒くしているという現実だけがあった。
隣で眠るリナは、先ほどの蹴りが嘘のように、今は静かな寝息を立てている。
ウォルフラムはしばらく一人、乱れた呼吸を必死に整え、高鳴る心臓を鎮めようと、ただ静かに夜の闇を見つめ続けるのだった。
