17_死の舞踏、魔王の調べ
魔法”熊蜂の飛行”が霧散し、リナとフェインは再び睨み合う形となった。
「まさか、自ら虫の姿になるとは……。女性として、いかがなものでしょうか」
フェインが仮面の奥から、心底不思議そうに問いかける。
「そんなものは、非合理で古い価値観です」
リナは自らの背に生やしたばかりの、昆虫のそれと見紛う羽根を震わせながら飛行し、静かに反論した。その姿は、およそ人間とはかけ離れている。
ふと、彼女の視線が別の戦場へと移った。
「あちらも、終わったようですね」
ウォルフラムがジーニーを打ち破ったのだ。時間経過によりプレイネットはもはや形を保てず、光の粒となって崩れ落ちていく。再び、ザハラの広い空が姿を現した。
先に動いたのは、フェインだった。
「ではまた、広く使いましょうか」
その言葉を合図に、街の外の砂漠から、大小様々な飛竜のアンデッドが無数に空へと舞い上がり、彼の周囲に集結する。骨と皮ばかりの翼が空気を打ち、不気味な合唱を奏でた。
牙が、爪が、一斉にリナへと襲いかかる。
彼女は、その猛攻を危うげに掻い潜った。
(シューティングスターが無いと、このスピードは厳しい……!)
相棒である箒がすぐに駆けつけることは分かっている。それまでの、わずかな時間。されど、死ぬには十分すぎる時間。
リナは目を閉じ、意識を集中させた。全方位から敵が迫る空中戦。慣れてはいるが、今はいつもの圧倒的な速度がない。より早く、より正確に、危険を察知する必要があった。
(視覚情報に頼っていては間に合わない)
数十秒前に手に入れたばかりの頭の触角が、微細な魔力の流れを捉える。閉じた瞼の裏で、敵意の奔流が光の粒子となって映し出された。その光の渦の中に、一筋だけ安全な道筋が見える。
(見える。どこが安全な道になっているのか)
彼女は落ち着き払い、その光の道筋を辿った。数多の攻撃が飛び交う中を、まるで人間が目で追うことのできない小さな蚊のように、あるいは風に舞う蝶のように、ひらりひらりと舞い踊る。
しかし、その刹那。
ゴオオオオ、と地を這うような低い音と共に、灼熱の空気が肌を焼いた。
リナは目を見開く。
先程まで見えていたはずの安全な道は、正面から迫る巨大なドラゴンのブレスによって、全て焼き尽くされていた。退路はない。後方からは、小型の飛竜の群れが鋭い牙を剥き出しにして迫っていた。
絶体絶命。だが、リナの口元には、ふっと安堵の笑みが浮かんだ。
「――逃げ切りました」
ドッ、という鈍い音と共に、火を吹くドラゴンの喉に一本の黒い筋が突き刺さった。魔剣オリジンだ。急所を貫かれた巨体は力なく高度を下げ、砂漠へと墜落していく。
さらに反対方向、リナに狙いを定めていた飛竜の群れが、背後からの不可視の斬撃によって血飛沫を上げて散っていった。
飛竜がいた空間に現れたのは、ウォルフラム。彼の手には、黒い光を帯びて短剣と化した蜂の羽が握られていた。
「……その格好は、なんだ?」
彼の第一声は、目の前の惨状でも、敵の驚異でもなく、リナの異様な姿に対する純粋な疑問だった。
「蜂を捕食して解析したんです。今は私の力になっています」
ウォルフラムを乗せていた箒を自分の元へと呼び寄せ、彼と共に跨りながらリナはこともなげに言う。
「捕食……。あの変な蜂を、食ったと……?」
ウォルフラムは一瞬聞き間違いかと思ったが、すぐに思い直す。いや、彼女ならやりかねない、と。
尚も際限なく湧いてくるアンデッドたちを、リナは巧みな箒さばきで回避する。
「それはどうでもいいんです。私一人では、この無数の人形たちを相手に逃げ回るのが精一杯です。ウォルフラムさん、私の後ろで攻撃をお願いできますか?」
「いいだろう。窮屈だから、大きい一撃は撃てないぞ」
ウォルフラムはくるりと体勢を変え、リナに背を向ける形で構えた。
「もちろんです。ギリギリまで接近できるよう、合わせます」
「ジーニーまでも倒すとは。帝国の王子様は、思ったよりも戦慣れしているのですねぇ」
ウォルフラムの姿を認めたフェインが、揺さぶりをかけるように帝国の話題を振る。
「貴様の目的は」
「目的は何ですか?」
ウォルフラムの問いに、リナが思わず言葉を被せてしまった。彼女は気まずそうにウォルフラムを振り返る。
「……おやおや。仲が、よろしいことで」
フェインは質問には答えず、ただ皮肉な笑みを深めるだけだった。
ムスッとするリナに、「乗るな、安い挑発だ」とウォルフラムが低く制する。
気まずい空気を切り裂くように、飛竜のアンデッドたちが次々と迫る。
リナは自慢の箒でその間をすり抜け、追い越し、翻弄する。彼女が飛竜たちの群れを駆け抜けるだけで、その後ろから放たれる嵐のような剣筋が、それらを次々と斬り捨てていった。
あっという間に、空を覆っていたアンデッドの数は激減した。
「ふむ、ずいぶんと倒されてしまいましたね。リソースが空きました」
フェインは少しも堪えた様子なく、まるでカードがまだ沢山あるとでも言いたげに魔導書を片手に次の一手を唱える。
「では、続きまして。どうぞお楽しみください。”死の舞踏”……!」
ふざけるように口角を上げ、指揮棒を振るう仕草をする。残っていたアンデッドたちは虚空に現れた黒い影に飲み込まれ、不気味で、どこか躍動的な前奏が鳴り響いた。
フェインの周囲に、無数の魔法陣が一斉に点灯する。そこから現れたのは、白く半透明な無数の人影。幽霊、と呼ぶべきものか。
「ちょうど、暑かったでしょう?」
霊たちは、音楽に合わせるように楽しげに踊りながら宙を舞い、リナたちに迫る。彼らが近くを通過するだけで、肌を刺すような冷たい風が吹き荒れた。
(また、音の精霊契約による魔法……!)
次々と通り過ぎる冷気の風を避けながら、リナの表情は険しくなる。
「ウォルフラムさん、面倒なものが出てきました。後方支援は一旦終わりです」
心底嫌そうに、リナはふうっと息を漏らした。
「あの”舞い”を見てはいけません。人を惹きつける力、”魅了”の精神攻撃です」
リナが知識の中から警告を発する。その時、白い霊体の一体が二人に最接近してきた。
ウォルフラムが剣を振るうが、その刃は風を切るように半透明な体をすり抜け、手応えがない。
「見た通り、物理攻撃は効きません。彼らは物理の概念を、別の次元に置いてきたような存在です」
リナの操縦によって、二人は霊体が伸ばしてくる手に触れるのを辛うじて避けた。
聞いていたウォルフラムの肩が、ピクリと跳ねる。
「……つまり俺は、あの白い奴から目を逸らすことしかできないと?」
「残念ながら、今のところは。ですが、この魔法は私が今身につけている”熊蜂”の主と同じ精霊の契約から成り立っています。ですので……」
リナが傍らに浮かぶ魔導書のページをパンと叩くと、彼女の背の羽が消え、代わりに魔導書の上にその翅脈(しみゃく)を模したドーナツ状の魔法陣が現れた。
「熊蜂を入り口として、フェインの魔法へハッキングを開始します」
リナの頭に残る触角が淡く光り、連動するように魔法陣の一部の色が青白い光から緑色へと変わっていく。それは、解析の進捗を示すプログレスバーの役割を果たしていた。
「術者へ直接攻撃ができそうな好機があれば、お願いします」
その声には、運任せ、といったニュアンスが滲む。
「あの霊体に触れれば、体温と生命力を根こそぎ奪われます。一種の”呪い”です。霊体がフェインの守りを固める限り、私の飛行で近づくのは危険すぎます」
「……チッ。わかった。お前の専門分野なのだろう。その判断に従う」
しかし、無数の霊体から逃げ回りながらの解析作業は、リナ一人に多大な負荷をかけた。
(俺は彼女の後ろで、ただ見ていることしかできないのか……?)
ウォルフラムが歯噛みした、その時だった。リナが下方へ避けた霊体の先に、別の霊体が回り込んで退路を塞いだ。
「っ!……捕まってください!」
リナは咄嗟に箒をきりもみ回転させ、強引に進行方向を変える。一瞬、逆さまの重力が頭を引っ張るが、すぐに捻るような動きで体勢を立て直した。
リナにとっては慣れた機動だったが、今の彼女の焦りは、この無茶な飛行でウォルフラムを振り落としてしまわないか、という一点にあった。
「大丈夫ですかっ!?」
「リナ!」
ウォルフラムの鋭い声が飛ぶ。彼女が心配した一瞬の隙を、霊体は見逃さなかった。
ウォルフラムは力任せに彼女の体をぐいと引き寄せた。
彼の片腕の力は凄まじく、リナを軽々と脇に抱え込むと、もう片方の手で箒の柄をしっかりと掴み、二人を固定する。振り落とされる心配など、もとより無用だった。
しかし、狙っていたリナを捉えきれなかった霊体は、咄嗟にウォルフラムの体をすっと貫通した。
リナが息を呑んだが、彼は特に反応を示さない。それどころか、脚に力を込めると、両腕でリナを元の操縦席にぽんと戻した。
「な、なんとも無いんですか……?」
「ああ、何ともないな」
それを聞いて、リナが「あ!」と声を上げた。
「そうでした!ウォルフラムさんは既に強力な呪いを受けているんでしたね……。それに比べれば”死の舞踏”の呪いなど微弱なもの。効果がないようです」
「……そうか。俺にはこの術は無効だと。だが、術者に近づけない状況は変わらないな」
彼の言う通りだった。リナの操縦だけが頼りの今、フェインへの接近は困難を極める。彼女が被弾せずにこの状況を打開するには、ウォルフラムはただ待つしかなかった。
踊るように二人を追っていた白い影は、やがて統率の取れた魚の群れのようになり、徐々に包囲網を狭めてくる。
「進捗18パーセント。むぅ……ちょっと、忙しくて解析が進みません」
リナの焦りをさらに煽るように、不気味な音楽は続く。フェインは、二人の様子を面白そうに眺めながら、優雅に指揮棒を振り続けていた。
やがて、魚の群れのようだった白い群衆は、統率の取れた兵のように綺麗に隊列を組み、リナたちを完全に包囲した。
そして、一斉に距離を詰めてくる。
リナは再び華麗な回避を繰り返したが、その全てを避けきることは、もはや不可能だった。
フッ、と彼女の体を白い光が通り抜けた。
「ぐぅっ!」
外傷はない。しかし、生命力がごっそりと奪われる感覚。血の気の引いた白い肌がさらに白くなり、唇から色が失せていく。それでも彼女は歯を食いしばり、必死に操縦を続けた。
ウォルフラムにできるのは、彼女が箒から落ちないように、その体を支えることだけだ。
かける言葉も見つからず、ただ彼女を背後から覆うように抱きかかえる。伝わってくる体温は、氷のように冷たくなっていた。これが、本来の”死の舞踏”が持つ呪いの力。灼熱の砂漠の街で、凍死に至らしめるほどの、絶対的な冷気。
フラつく飛行は、霊たちにとって格好の的となった。次の霊体が、ウォルフラムごと、リナの体を通過する。
「……っ、……はぁっ」
普段の彼女からは想像もつかない、細く、小さな悲鳴。
体の芯が震え、無意識にカタカタと歯が鳴る。高熱に浮かされる前の、強烈な悪寒に似た感覚。血の巡りが悪くなり、視界が徐々に狭まっていく。
「一度、重力に任せろ。下が空いた」
耳元で、はっきりと告げられた彼の助言に従い、彼女は操縦桿から力を抜いた。
箒は、ただの鉄の塊となって落下する。それにより、白い霊たちの包囲網から一瞬だけ抜け出すことができた。
「抜けたぞ」
彼が声をかけると、リナはぐったりとしながらも、残った意識を振り絞って箒を立て直す。箒がまだ飛んでいるという事実だけが、彼女にまだ意識が残っていることを客観的に示していた。
普段は羽根のように軽い体が、今は鉛のように重い。
愛車を握る力も最早残っておらず、支えてくれる他者の体に、不本意ながらも背中を預けるしかない。
それでも彼女の瞳の奥には、まだ確かな光が宿っていた。光は自分の中にだけ存在する”回路”を映し出し、思考を続けていた。
「かいせき……89、パーセン……ト」
ウォルフラムは息を呑んだ。あの絶望的な状況下で、彼女の思考はただの一度も、フェインへの突破口を探すことから逸れていなかったのだ。
急激に伸びた進捗。彼は理解した。リナは、回避する力を失ったと判断した瞬間、自らの安全を切り捨て、全ての思考リソースを解析に注ぎ込んだのだと。
箒は波に揺られるように、ふらふらと少しずつ高度を上げていく。彼女は荒い息を繰り返しながらも、最後の打開策を絞り出した。
「ウォルフラムさん、最早、私には……急旋回や、急停止の技術を、生かせる判断力が……ありません」
弱々しい声。しかし、その奥には鋼のような意思が宿っていた。
「単純な飛行しかできない今……私が、操縦の判断をする必要は、ない。私の腕を……取って、進路を決めてください。……従います」
彼女は、自らの手をウォルフラムの手にそっと重ねた。
白い霊の群れが、再び二人を囲もうと迫ってくる。ウォルフラムは、預けられたその冷たい腕を取り、進むべき方向を指し示した。
「……こういうことか?」
背中を預けたままのリナが、こくりと頷く動きが、彼の胸に伝わった。
傍らを飛ぶ魔導書の上では、幾何学模様の魔法陣が完成を目指して尚も目まぐるしく動き続けている。
リナの目は、もはや周囲の状況を捉えていない。体の全てをウォルフラムに預け、右手に伝わる彼の意思を、ただ箒の動きに乗せるだけ。それは、ナビゲーターを完全に信頼しきった、リスキーな”ながら運転のようなもの”だった。
(この魔法の効果は、瞬間的なもの。少しでも体を休めれば、今よりはマシになる……!)
フェインの音楽によって統率の取れた霊体の軍勢。だが、その統率こそが、ウォルフラムにとっては好都合だった。
(……包囲殲滅陣形、の三次元版か?空という立体的な舞台には慣れないが、基本は同じだ)
故郷の王宮で、それこそ血反吐を吐くまで叩き込まれた魔導戦略論。彼の脳裏には、眼下に広がる霊体の群れが、見慣れた兵棋演習の駒のように映っていた。
敵陣の僅かな隙間、力の最も薄い一点を正確に見抜き、彼はそこを突破するための最短経路を即座に描き出す。
アクロバティックな動きも、無駄な加速もない。ただ、馬(箒)を駆り、敵の陣形を最も効率的に突破する、ただその一手だけを思考し、リナの腕を導いた。
その動きの変化に、フェインも気づいた。
(動きが変わった……?ああ、そうか。あの王子ですか)
面白い玩具を見つけたように、その口元が歪む。
(もういいでしょう。次の曲へ移った方が、楽しめそうだ)
さらり、と彼の持つ魔導書が、自らの意思を持つかのようにページをめくった。
それまで遠巻きに戦況を眺めていたフェインが、自ら少しだけ距離を詰めてくる。
リナはまだ満身創痍だったが、術者の接近は千載一遇の好機だ。
(何故近づく?次に何をする気なの……?)
彼女は鋭い目つきでフェインを睨みつけた。ウォルフラムは、まだリナの腕を握り、進路をコントロールしている。
「お姫様は、もう少しで墜とせそうですねぇ。残念ながら、あなたに彼女は守れない」
フェインが挑発する。しかし二人は乗らない。ただ黙って、彼の真意を探ろうと神経を研ぎ澄ませていた。
「楽しんでいただけているようで、何よりです。では、次の曲と参りましょうか」
リナは思考する。このタイミングで、最も警戒すべき次の一手とは何か。知識の海を探ろうとするが、呪いによって凍てついた頭は、いつものように高速で回転してはくれない。
フェインが、再び指揮棒を振った。白い霊たちが、ふっと霧のように消える。
「”魔王”……!」
テンポが速く、聴く者の心を掻き乱すような、緊張感に満ちた音が辺りを満たした。
その曲名を聞いた瞬間、リナはハッとして、弾丸のように箒を後退させた。全身を駆け巡る緊張が、体の不調を一時的に忘れさせる。
(狙いは私じゃない!彼を狙うための挑発だったんだ!)
「ウォルフラムさん!音を聞いてはいけません!」
リナの絶叫は、しかし遅かった。ウォルフラムの中から、影のような黒い無数の手が伸び、瞬く間に彼の体を闇の中へと引きずり込んでいく。
(幻術を使った精神攻撃……!今の彼の心には、最悪すぎる!敵は、それを知っているの!?)
闇が、全ての自由を奪っていた。
ウォルフラムは、体に絡みつく無数の手から逃れようともがく。
片腕だけが、辛うじて影の外にあった。その手で、閉ざされた視界を力任せにこじ開ける。
無数の手の隙間から、現実世界の光景が覗いた。しかし、すぐにその腕も捕まれ、締め付けられる。
「んっ、ぐ……」
口を塞がれ、声も出せない。
暗闇の中で彼が見たのは、自分自身の形をした影。そして、その影と対峙する、兄ルークの姿。場所は、忘れもしない、あの日の王宮の庭園。
まるであの日を、悪意を持って再現するような、悪夢だった。
ルークとウォルフラムの影が、激しく剣を交える。
「戻ってこい、ウォルフラム!」
聞こえる声は、紛れもなく、兄のものだった。
「優しいお前が、王の器でないことは分かっていた。だから、私がお前を守ると、そう決めたのだ」
キン、と甲高い音を立てて刀同士がぶつかり、二つの影は力の押し合いになる。
「自分を、保て。私が必ず、お前の帰る場所を守り抜く」
兄の心を、完璧にトレースしているかのような言葉だった。
しかし、ウォルフラムの影はあの日と同じように、渾身の斬撃で城壁を打ち崩した。民がいるはずの、城門付近に瓦礫が降り注ぐ。
ルークが息を呑む。その一瞬の隙を突き、影はルークの右腕を切り落とした。
噴き出す血飛沫。地に落ちる腕。その近くに投げ出された、彼の愛剣。
「ぐうっ!」
目眩に耐えきれず、膝をつく兄の姿。
だが、悪夢は終わらない。倒れまいと片膝を立てるルークの頭を掴むと、ウォルフラムの影は、その腹目掛けて容赦なくつま先で蹴りを入れた。
ルークは、血の吹き出す右肩から、どさりと地に倒れ込む。
ウォルフラムは、腹の底で溶岩が煮え滾るような感覚に襲われた。
『やめろ!!!』
声を出そうともがくが、黒い手の拘束から抜け出せない。
「ルーク陛下!」
王の敗北に、数人の騎士たちが駆けつける。
影はそれを嘲笑うかのように、剣を一閃した。瞬間。まるで紙でも千切るように、騎士たちの体はバラバラに引き裂かれた。
それから影は、ゆっくりと倒れた兄に近づく。容赦無く固定するように頭を踏みつけると
グサリ。
地に着く右脚の、内腿を深く突き立てた。
「ぐああっ!」
痛みに喘ぐ声。頭を脚に、軸となる右脚を剣に抑えられ、巡る血も足りず、兄は立ち上がることを許されずにもがくだけとなった。
(やめろ。やめてくれ。兄上。兄上…!)
心の奥底からの絶叫は、しかし声にはならない。
影はそれをまるで楽しむかのように、グシャリグシャリと音を立てて、その肩に、脚に、脇に、腹に、何度も、何度も、剣を突き立てた。
「ゔっ…あっ……あぁっ…」
悲鳴にすらならない、息が抜けるような兄の声が、振り下ろされる刃の度に無惨に響いた。
しかしその声も長くは続かない。純白の礼装は見る間に赤く染まり、ヒクヒクと小さく動いていた体も段々と反応がなくなる。
後にはグチャグチャと肉を掻き回すような、おぞましい音だけが、永遠に続くかのように響き渡った。
ウォルフラムの思考は、灼熱の鉄で焼かれたように白く染まり、何も考えられなくなった。
ただ、目の前の光景を否定しようと、理性を失くして力任せに暴れた。鼓動が乱れ、息ができない。
ようやく、口を塞いでいた黒い手が、わずかに緩んだ。
「やめろおおおおおおおおおおおぉっ!!!」
途端に、視界が開けた。
「うあああああああああああぁ!」
現実の世界に、自分の獣のような絶叫が響き渡る。
「ウォルフラムさん!しっかりしてください!」
リナが彼の体に触れているにも関わらず、その体が半分だけ魔神の姿へと変貌しかけ、そしてすぐに元に戻った。
それから彼の瞳は、まるで電池が切れたかのように、ふっと光を失う。
体勢を保つ力をなくし、ウォルフラムの体は、箒から滑り落ちるように、空へと投げ出された。