09_帝国からの逃亡

ペチンッ!
その軽い音と共に、リナの脳裏に一瞬で共有された彼の記憶。

ーーどれだけ走っただろうか。
木の根に足を取られ、ぬかるみに膝をつき、それでもウォルフラムは走り続けた。
背後で聞こえた騎士たちの怒号も、今はもう遠い。
肺は焼けつくように痛み、全身が悲鳴を上げている。
だが、そんな肉体的な苦痛など、彼の心を苛む絶望に比べれば些細なことだった。

脳裏に焼き付いて離れない。
敬愛する兄、ルークの驚愕に歪んだ顔。
宙を舞った彼の右腕。
噴き出す鮮血。
そして、弟を斬る覚悟を決めた、あの悲痛な瞳。

それだけではない。
脳裏をよぎるのは、自分が放った攻撃が、兄のはるか頭上を越えて城門の方角へと飛んでいった、あの瞬間。

(あの場所には、まだ避難している民がいたはずだ…!)

自分の力が、兄だけでなく、名も知らぬ民の命までも奪ってしまったかもしれない。
その可能性が、鉛のように重く彼の心を沈ませる。

「う、あああああああっ!」

意味のない叫びが、暗い森に木霊した。
ウォルフラムは、もはや何の価値も持たない栄光の残骸を、その身から引き剥がした。
兄と同じ色をしていたはずの青いサッシュを力任せに引きちぎり、動きを妨げる豪奢なジャケットも、草木に構わずに脱ぎ捨てる。
今はただ、飾り気のないシンプルなシャツとボトムスだけが、傷ついた彼の身体を包んでいた。

やがて、風の匂いが変わる。潮の香り。
森を抜けた先は、月明かりに照らされた断崖だった。
眼下には、黒い波が不気味にうねっている。
王宮からは、もうずいぶんと離れたようだった。

やがて、風の匂いが変わる。潮の香り。
森を抜けた先は、月明かりに照らされた断崖だった。
眼下には、黒い波が不気味にうねっている。
王宮からは、もうずいぶんと離れたようだった。

『――それで逃げ切れたと思うか?』

頭の中に、直接声が響く。
忌まわしい、あの魔神の声だ。
ウォルフラムの足元に影が広がり、無数の黒い手が首や肩、腕を掴んだ。
彼の体は黒く瘴気を帯び、その力に、引き摺り込まれそうになる。息が詰まる。
『楽になれ。罪を犯したのは貴様じゃないんだ。何も考える必要はない。』
それは悍ましい悪魔の囁きだった。

「……っ!ハァ……黙れ…!」
やっとの想いで影を振り解き、なんとか喘ぐ。

ウォルフラムは、震える手で自らの胸元に手をやった。
魔神と化していた時の記憶通りに念じると、掌に冷たい感触が生まれる。
虚空から現れたのは、禍々しい黒のオーラを纏う魔剣「オリジン」。
自らの意思で召喚できてしまった事実に、彼は唇を噛み締めた。

「消えろ!」

力任せに剣を海へと放り投げる。
しかし、オリジンは放物線を描くことなく霧散し、次の瞬間には再び彼の手の中にあった。
何度捨てても、結果は同じだった。
絶望が、彼の心を黒く塗りつぶしていく。

(…ならば)

彼は覚悟を決めた。
自らの心臓目掛けて、オリジンの切っ先を向ける。
アークライト王族として誇ってきた、光り輝くはずの魔力。
それが今や、黒い炎のように揺らめきながら剣身を覆っていた。

「これで、終わりだ…」

渾身の力で、自らの胸を突く。
だが、切っ先が肌に触れる寸前、彼の目の前に幾何学的な魔法陣が自動で展開し、突き立てたはずの剣は、その勢いのまま黒い魔力となって彼自身の身体に吸収されてしまった。
血の一滴すら流れない。
死ぬことすら、許されない。

「……っ、く…」

膝から崩れ落ち、ぐったりと仰向けに倒れ込む。
息だけが、荒く夜の静寂を乱していた。
その時だった。
崖の下、波音に混じって僅かに人の声が聞こえる。
魔神のそれとは違う、生身の人間の声だ。
身を起こして崖下を覗き込むと、洞窟に隠された一隻の船と、そこで何やら取引をしている船乗りたちの姿が見えた。

(…密輸船か)

不正な魔石の取引。
かつての自分であれば、決して見過ごすことのない悪事だ。
だが、今のウォルフラムに彼らを断罪する資格も力もない。
何より恐ろしいのは、この身に宿る魔神が、いつまた牙を剥き、兄や民を、そして目の前の悪党すら傷つけるかもしれないということだった。

(…そうだ。この大陸から、消えなければ)

いつ乗っ取られてもおかしくないこの身体を、誰の手も届かない場所へ。
彼は密航を決意した。
船乗りたちの警戒は緩く、闇に紛れて船倉に忍び込むのは容易かった。

出航から数日、海は凪いでいた。
ウォルフラムは薄暗い船倉の積荷の陰で、ただ息を潜めていた。
その静寂は、突如として破られる。
船底を巨大な槌で打ち付けられたかのような、凄まじい轟音と衝撃。

「ドォォンッ!」

船が大きく傾き、固定されていなかった木箱が滑り落ちて砕ける。
甲板から響くのは、船乗りたちの恐怖に歪んだ絶叫だった。

「クラーケンだ!伝説のクラーケンが出やがった!」

その言葉に、積荷の陰で身を潜めていたウォルフラムの心に宿ったのは、絶望ではなかった。
むしろ、暗く歪な希望の光だった。

(…海の魔物。これほどの存在ならば、この呪われた身体ごと、確実に葬り去ってくれるだろう)

兄を傷つけ、国を追われた身だ。
これ以上ない、ふさわしい死に場所ではないか。
彼は静かに、その時が来るのを待とうとした。
だが、その決意はすぐに揺らぐ。
すぐ近くの樽の陰に逃げ込んできた船員が、マストをへし折りながら甲板を薙ぎ払った巨大な触腕に捕らえられたのだ。

「うわあああっ!」

宙吊りにされ、締め上げられていく男の悲鳴。

(…馬鹿な。俺には関係ないはずだ)

そう思考が命じるより早く、彼の身体は動いていた。
掌に冷たい感触が生まれ、禍々しい魔剣オリジンが現れる。
ウォルフラムは積荷の陰から甲板へと飛び出し、考えるよりも先に、その触腕を鋭く斬り裂いていた。
無法者たちとはいえ、目の前で命が見捨てられるのを、彼は黙って見ていられなかったのだ。

オリジンを振るい、触腕を斬り裂く。
その常人離れした戦いぶりに、船乗りの一人が問うた。
「おい、お前さん、一体何者だ?」

(私、は…)

脳裏に蘇るのは、血に濡れた敬愛する兄の姿。
自らの内に響く、悍ましい魔神の声。

(私は、誰だ? 王子ではない。弟でもない。…ああ、そうか。私は、)

(――悪魔だ)

しかし、彼の唇からこぼれたのは、乾いた砂のような、か細い声だった。
「……俺は、誰でもない」
それは、魂の自殺だった。
彼の中で、誇り高き王子「ウォルフラム」は、確かに息絶えたのだ。


流れ込んできた記憶の奔流に、リナは息を呑んだ。
胸を締め付けるような、あまりにも重く、悲しい決意。
彼がなぜあれほどまでに死に固執するのか、その理由の片鱗に触れてしまったのだ。


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