05_魔法使いの目覚め
深い闇の中、リナは夢を見ていた。
アークライト帝国、西棟の第二書庫。
西棟にある第二書庫は、ウォルフラムにとって城内で唯一、心が安らぐ場所だった。
古書のインクと羊皮紙の匂いが満ちる静寂の中、彼はいつものように窓際の大きな革張りの椅子に深く身を沈める。
晩餐会の喧騒が嘘のように遠ざかり、ようやく思考が澄み渡っていく。
その、束の間の安息は、突如として破られた。
最初は、床を伝わる微かな振動。
次いで、遠くで何かが砕け散るような、くぐもった破壊音。
ただの物音ではない。
城の魔力循環に、不協和音が混じるのを肌で感じ取る。
空気が歪むような、異質な気配。そして遠く、しかし明らかな、殺気。
ウォルフラムは椅子から立ち上がった。
廊下に出ると、空気が一変した。
「ぐあっ!」「怯むな、押し返せ!」
緊迫した兵士たちの怒声に混じって、ガギンッ!と重い金属が激しくぶつかり合う音が、廊下の奥から断続的に響いてくる。
宝物庫の方角だ。
彼は迷わず音のする方へと一歩踏み出した、その時だった。
すぐに後ろから、鎧を鳴らす慌ただしい足音が迫り、血相を変えた兵士の一団が彼を追い越していく。
ウォルフラムはその一人の腕を強く掴み、足を止めさせる。
「何の騒ぎだ!状況を報告しろ!」
「で、殿下!宝物庫より、正体不明の魔物が…!ルーク陛下への報せは、ただいま使いの者が!」
応援に行こうとしていた兵士と共に現場へ向かうと、そこにあったのは凄惨な破壊の跡だった。
分厚い鋼鉄でできた宝物庫の扉は内側からこじ開けられたように歪み、壁には巨大な穴が穿たれている。
「殿下、こちらです!」
兵士の一人が叫ぶ。
破壊の跡は、従来の間取りを無視して宝物庫から続く廊下を抜け、西棟の大広間へと続いていた。
ウォルフラムが広間に駆け込むと、そこで彼は異形の影が近衛兵たちを蹂躙する光景を目の当たりにした。
広間のシャンデリアが放つ光が、黒い瘴気を纏う魔神の姿を不気味に照らし出している。
屈強であるはずの兵たちが、まるで紙切れのように吹き飛ばされ、壁や柱に叩きつけられていた。
兵士たちは人の多い方角から進路を逸らすように必死に盾を構えるが、その黒い人影が腕を一振りしただけで雪崩のように何人も押し返された。
ウォルフラムは帝国の魔導剣を二振り拾い上げると、片方を地に突き立てた。
剣は光となって散ると、代わりに彼の鎧として現れた。
タンッ、
顕現した鎧の重さを感じさせず、弾丸のように跳躍したウォルフラムが一瞬で黒い影に距離を詰める。
兵士を狙っているその影の胴に剣を振るった。
黒い影が振り向き、ウォルフラムの剣に構える。翳した黒い手から一太刀の剣が現れた。
金属の弾ける音が響き、ウォルフラムの剣を弾くと反撃を繰り出した。
カカカカカッッ!
激しい剣の撃ち合いが繰り広げられる。多くの兵士たちの目にはその太刀筋を追うことすら難しかった。
「退がれ!おまえたちでは犬死にするだけだ!」
ウォルフラムの鋭い声が、広間に響き渡る。
生き残っていた兵士たちが、驚きに目を見開いて彼を振り返った。
迷うのも無理はない。王族が圧倒的に力があるとは言え、彼はまだ15歳なのだから。
「しかし、殿下…!」
「ここは私が引き受ける。兄上が来るまでの時間を稼ぐ」
有無を言わせぬその声と、王族だけが持つ圧倒的な気迫に、兵士たちは頷き合うと、負傷した仲間を抱えながら後退していく。
一人、静まり返った広間で魔神と対峙したウォルフラム。
防具も身につけない彼に、魔神が鋭い爪を振りかざし襲いかかる。
ウォルフラムは紙一重でそれを躱す。
勢い余った魔神の腕は、背後の壁に深く突き刺さった。
その一瞬の隙を見逃さず、ウォルフラムは魔神の背後で拾い上げた剣の一本を大理石の床に突き立てる。
剣は光の粒子となって霧散し、彼の体を包むように豪奢な鎧を召喚した。
残る一振りの剣を構え、覚悟を決めてその切っ先を黒い影に向け、駆けた。
影が振るう黒い剣は、ただの力任せではない。
その剣筋に、ウォルフラムは戦慄した。
それは紛れもなく、彼自身が血の滲むような訓練で叩き込まれた、王家の剣技そのものだったのだ。
一切の無駄がなく、どこか機械的ですらある洗練された動きが、的確に急所を狙ってくる。
キン、と甲高い音を立てて剣を受け流すが、腕に伝わる衝撃は鉛のように重い。
(くそっ、力が違いすぎる…!)
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
この魔神に対抗しうるのは、もはや自分しかいないのだ。
彼は猛攻を凌ぎ続けた。
一撃を躱し、懐に潜り込んで斬りつける。
浅い傷しか与えられないが、構わず次撃を繰り出す。
攻防一体の流れるような動きで、必死に食らいついていた。
しかし、黒い影はまるで嘲笑うかのように、その手に黒い魔力の塊を凝縮させ始めた。
まずい、と直感したウォルフラムが距離を取ろうとするより早く、圧縮された闇が轟音と共に放たれる。
回避は間に合わない。
彼は咄嗟に剣を十字に構えた。
その瞬間、アークライト帝国が誇る防御魔法陣が、剣を触媒として眼前に展開される。
タイミングは完璧だった。
しかし、魔神の放った闇の奔流はあまりに強大で、シールドは甲高い音を立てて砕け散る。
完全に威力を殺しきることはできず、残った衝撃がウォルフラムの体を背後の壁まで吹き飛ばし、役目を終えた魔導剣は光の粒子となって消えた。
「ぐっ…!」
壁に叩きつけられた衝撃で、肺から空気が押し出される。
視界が白く点滅し、口の中に鉄の味が広がった。
それでも彼は、壁に手をつき、よろめきながらもゆっくりと立ち上がる。
無防備なその姿を、魔神が見逃すはずはなかった。
黒い影は、その手に持つ剣をウォルフラム目掛けて投げ放つ。
死を覚悟した、その瞬間。
甲高い金属音と共に、見えない何かに黒い剣が弾かれた。
「――そこまでだ、悪しき情の塊よ」
凛とした、氷のように冷静な声が響き渡った。
一条の光を纏い、そこに立っていたのは新王ルーク。その姿は、混沌の戦場においてあまりに完璧で、絶対的な「秩序」の象徴に見えた。
ルークの瞳は、その魔物の姿を見るのではなく、もっと深いところを覗くように閉ざされた。
静寂が満ち、そこには彼と魔物しかいないかのように映る。彼の力だ。
ざわざわと砂嵐のようなノイズが響いた。
『聞こえているぞ、お前の性根は。何人もの悪しき感情が集まって姿を成したか。』
まっすぐに見据えるルークに、黒い人影が答える。
『最も悪しきは貴様らの方だ…。シュタインの血よ。幾度もの戦の上に今の栄光があることを、知らぬわけでもあるまい…』
黒い影人影は剣を構えると、再び視界が開けて現実の喧騒が戻ってきた。
(保管していた魔剣が、密かに負の力を溜め込んでいたか…。もっと早く気づけなかったのか、私は。)
少しの苛立ちをお首にも出さず、冷たい瞳のまま軽く手首を返す。
キンッ。音が響き、振り翳された剣はルークに到達することなく宙で何かに弾かれた。
「退がれ、ウォルフラム。ここは私が引き受ける」
ウォルフラムの目の前で、世界の理が変わる。
兄、ルーク。彼はただそこに立っただけ。
戦場を一瞥しただけ。
だというのに、ウォルフラムが死闘を繰り広げた空間のすべてが、兄の掌中に収まったのが分かった。
「心剣術(ウィル・ブレード)」
兄の手刀が、何もない空間を薙ぐ。
直後、魔神の足元から光の刃が噴き出し、その巨体をいとも容易く宙に浮かせた。
(…剣すら使わず…!?)
体勢を崩した魔神が、報復の黒い斬撃を放つ。
だが、兄の姿はもうそこにはない。
カウンターの隙を突いた、などという生易しいものではなかった。
まるで時間が巻き戻るかのように、兄は既に魔神の懐、死角の中へと移動を終えていた。
それは戦いではない。あまりにも一方的な「解体」だった。
魔神が黒い魔弾を練る。その腕が、飛んだ。
魔神の爪が迫る。その手首が、落ちた。
ウォルフラムの目には、兄の剣閃すら捉えられない。
ただ、結果だけが目の前で積み重なっていく。
(これが…兄上…? これが、帝国の『光』…!?)
今まで一度も見たことのなかった兄の実践。
本気ですらない、その圧倒的なまでの余裕。
ウォルフラムは、少し離れたところから、ただ戦慄することしかできなかった。
あっという間に、ルークの剣が魔神の核を捉え、その巨体は声もなく崩れ落ちた。
だが、悪夢はこれからだった。
霧散していく魔神の跡に、インクを零したような黒い影が残る。影は生き物のように蠢くと、床を凄まじい速さで滑った。
ルークは何かを感じて声を荒げた。
「まだだ!離れろウォルフラム!」
兄に敵わないと悟った黒い影が、ターゲットを変えたかのようにその弟ウォルフラムへ付き纏った。
「?!」
ウォルフラムは素早く影から離れたが、影から伸びた無数の手が、彼の足を、腕を次々と掴んだ。
「くっ!」
ルークの目に初めて焦りの色が浮かぶ。
「彼から離れろ…っ!」
ルークが剣を振るうと地面を伝う大きな斬撃が、王宮を壊すのも厭わず凄まじい勢いで黒い影の手を全て切断した。
しかしそれでは終わらない。今度は影全体が大きな腕の形を成して、握った小指の先から光る刃物が見える。
その切先はバランスを崩したウォルフラムを捉え、鎧を砕き、その心臓を背中まで貫いた。
悲鳴も出せず、鮮血を散らしたウォルフラムの体がぐらりと傾き、床に倒れるのと同時に、その刃物も影も、まるで幻だったかのように掻き消えた。
「ウォルフラム!」
ルークが駆け寄る。その手が弟の体に触れた瞬間、彼は息を呑んだ。
彼に聞こえる”魂の音”が、弟の中に得体の知れない「何か」が侵入したことを、明確に伝えていたからだ。
それは、先ほどあの黒い魔物から感じた、純粋な憎悪と絶望の塊。長年蓄積された怨念。
次の瞬間、ウォルフラムの体を中心に、凄まじい黒い炎の爆発が起こった。
爆風に吹き飛ばされながらも、ルークが見たのは、炎の中心でゆっくりと立ち上がる、漆黒の騎士の姿だった。
頭部からは硬質な角が、背中からは歪な尻尾が生え、その姿はまさしく苦悩する魔性の騎士。
しかし、その動きは先ほどの魔神とは全く異なっていた。
馴染みのある、守るべき者の太刀筋がルークを襲ってきた。
(…ウォルフラム、お前の剣か…!)
新たな姿を得た目の前の魔神の攻撃は、弟の振るう剣の筋そのものだった。
「近衛騎士団に通達!これより西棟を完全封鎖!何人たりとも近づけるな!」
ルークは剣を構えながら、王として冷静に指示を飛ばす。民の、そして部下の被害を最小限に食い止める。
それが最優先事項だった。彼は魔神と化した弟を、意図的に人のいない中庭へと誘い込んでいく。
肉体を得た魔神は先程よりずっと素早く、ずっと硬く、攻撃が重い。
魔神ははっきりと、ルークを攻撃対象に狙っていた。彼にとっては都合がいい。
自身が魔神を相手している限り、被害の拡大を最小限にできるのだから。
壁が砕け、床が裂ける。壮麗だった王宮が、二人の戦場と化していく。
「ウォルフラム!聞こえるか!」
剣を交えながら、ルークは必死に弟の魂を探る。
彼はルークの声には応えないが、彼の声はルークに聞こえた。
憎悪の奔流の中に、彼はもがいていた。
黒い無数の手の中から、僅かに顔を覗かせる弟の姿がはっきり見える。
『…んゔっ!』
蛇のように巻き付く影の中から腕を出し、声にならない声をあげながら自身を掴む手を掴む。
(…まだ、いる。まだ、お前はそこにいるんだな…!)
弟がまだ魔神の中に生きていると確信したことで、ルークの剣は僅かに鈍った。彼の急所を突けない。
その一瞬の躊躇を、魔神は見逃さない。
「ぐっ…!」
魔剣の刃がルークの肩を浅く切り裂く。その時だった。
瓦礫の陰から、一人の従者が血相を変えて飛び出してきた。騒ぎに気づかず、逃げ遅れたのだ。
魔神はルークの頭上に魔弾を放ち、逃げる従者諸共建物の外壁に生き埋めにしようとした。
ルークは矢のように飛び出すと、従者の肩に手を当てた。
「すまないが肩を借りる。しゃがんで動くな!」
ルークは魔力を纏って彼を庇うように覆い被さると、ダンスさながらに足払いを繰り出し、落ちてきた外壁を全て捌いて見せた。
その動きは、ただの従者にとっては重い。
「大丈夫か?立って逃げてくれると嬉しいが…」
その答えを待たずに魔神は追撃の刃を振り下ろす。ルークは従者を庇うように受け止めたが、従者はまだ立ち上がれないようだ。
(ウォルフラム…!)
覚悟を、決めるしかなかった。
ルークによって放たれた渾身の一撃は、魔神の胴体を深々と貫く。弟に、致命傷を与えてしまった。
しかし、魔神は苦悶の声を上げながらも、その傷を瞬時に再生させ、より一層禍々しいオーラを放ち始めた。
「なんだと…!」
ルークの正義は、弟を苦痛から解放してやることもできず更に悪い事態を招いてしまった。
再生した魔神は、力を増してルークに切り掛かる。ルークは剣で受け、力の押し合いになる。
「行けっ!」
従者はやっと立ち上がり、なんとかその場から逃げ出した。
魔神は右手に剣を構えたまま、左手をかざした。
「…っ!」
ルークは咄嗟に剣をいなして身を引くと、黒い光の斬撃が宙を切った。
(ウォルフラムの力の領域ではない。今のは、私の技だ……!)
圧倒的帝国一の実力者、ルークの技は王族の心剣術を全身や服の裾に至るまでを強化された刃物のように扱い、時には空中への斬撃を飛ばす力だ。
その唯一無二の技をこの魔神は真似てきた。脅威は想定よりかなり大きいことが判明した。
魔法の斬撃と斬撃が激しく衝突し、城壁が激しく崩れ落ちた。戦場はついに、王宮の庭園まで開けてしまう。
魔神の大振りの一撃が、ルークの頭上を越えて宙を飛んだ。
遥か彼方、避難民がいるはずの城門の方角で、屋根が崩れ落ちる轟音が響く。
そして、一瞬だけ、夜空に雷が爆ぜたかのような閃光が見えた。
(城門の方には、まだ民が…!)
弟の力が、罪なき民を殺してしまったかもしれない。その可能性が、ルークの心に大きな動揺を生んだ。
そして、その一瞬の隙が、命運を分けた。
魔神ウォルフラムの剣が、閃光のように走る。
ルークは咄嗟に剣で受けようとするが、間に合わない。
鮮血が舞い、彼の右腕が宙を飛んだ。
噴き出す血しぶき。地に落ちる腕。
「ぐうっ!」
目眩に立ってられず、膝をつく兄の姿。その光景が、狂乱していたウォルフラムの意識を激しく揺さぶった。
(あ…あに、うえ…?)
自分が何をしたのかを理解した瞬間、彼の口から絶叫が迸る。その激しい動揺が、皮肉にも彼を魔神の姿から解放した。
黒い瘴気が晴れ、鎧ごと消えた後に残るのは、晩餐会での煌びやかな装飾の衣服を纏い、涙を抑えきれない、ただの十五の少年の姿。
ルークは彼を見て何か言おうとしたが、声は出ない。噴き出す血が、弟を守る言葉を許してくれなかった。
ずっと遠巻きに戦況を追っていた騎士たちが、一つの決着に勘付いて掛けてきた。
「ルーク陛下!ああ、なんてことだっ。応援を呼べ!」
その声に突き動かされるように、ウォルフラムは自らが作り出した惨状から逃れるかの如く、夜の闇へと走り、姿を消した。
(まだ、まだ私の中にアレがいる…!これ以上の過ちを犯す訳には!)
駆けつけた部下に支えられながらルークは静かに言う。
「追え。だが手は出すな。お前たちの手には負えない。近づきすぎるな。」
「……はっ!」
リナは息を詰めて目を覚ました。
ぼんやりとした頭で体を起こすと、そこは見知ぬ部屋のベッドの上だった。
壁にはモンスターのものらしき骨や皮が飾られ、乾いた砂の匂いがする。
(今のは…? ただの夢…なの?)
状況が飲み込めないまま、おそるおそる部屋を出ると、武骨な大剣を手入れしている女性と目が合った。
日に焼けた肌と、鋭いながらもどこか面倒見の良さそうな瞳を持つ女性だ。
女性は剣から目を離し、ニッと口の端を上げた。
彼女は何か言ったようだが、その言葉は、リナが今まで聞いたことのない、硬質でリズミカルな響きを持っていた。
「ここは…どこですか…?」
リナがか細い声で尋ねると、女性は「ああ、悪ぃ悪ぃ。東の言葉か」と片手を上げた。
近くの水差しから素焼きのコップに水を注ぐと、それをリナに手渡しながら、今度はリナにも聞き馴染みのある、流暢な言葉で続けた。
「目が覚めたようで良かった、チビスケ。まずは飲みな。気分はどうだ?」
「あ、ありがとうございます…。あなたは…? ここは…?」
「アタシはリンダ。ハンターさ。あんたたちはアトラトル砂漠のど真ん中で伸びてた。放っとくのも寝覚めが悪いんでね、アタシの家に連れてきたんだ。ここはザハラ。骨の城塞都市だよ」
「ザハラ…」
聞いたこともない名前に、リナは自分がとんでもない場所に来てしまったことを改めて実感する。
「それで…あの、一緒にいた男の子は…ウォルフラムさんは、どこに?」
その問いに、リンダは「ああ」と頷いた。
「坊やなら夜のうちに出て行ったよ。アタシにこんなのを置いていってね」
リンダはそう言って、テーブルに置かれた一枚の羊皮紙を顎でしゃくった。
リナがそれを手に取ると、そこに並んでいたのは、流れるように美しい文字だった。
リナの知るところ、アイセリアを含み世界は2つの共通語で分かれている。
そのうち東方共通語がアイセリアで使われる言葉。
もちろん外部を調査する部隊の一員として、研究所の文献で西方共通語には触れてきたが、実用的に目にするのは初めてだ。
「昨日の、夜、かしら・・・・?」
一つ一つの文字は美しく丁寧に書かれていて読みやすいものの、使われている単語や言い回しが難しく、リナは眉をひそめて「うーん」と首を傾げた。
「ああ、そいつは西の言葉で書かれてるからな。あんた、そっちは苦手なんだろ。仕方ない、アタシが読んでやるよ」
呆気に取られるリナから羊皮紙をひょいと受け取ると、リンダはそこに書かれた内容を読み上げた。
リンダ殿
昨夜は非礼を詫びると共に、寛大なるご配慮に心より感謝申し上げる。
同行の少女が目覚めた折には、どうかよろしくお伝えいただきたい。
些少ではあるが、世話になった礼の印として、この金貨を受け取っていただければ幸いだ。
ウォルフラム
リンダは西の言葉で書かれた手紙を淀みなく読み上げ、その内容を東の言葉でリナに伝えてくれた。
そのあまりに自然な切り替えに、リナははっと息を呑む。
(この人、西と東の言葉を両方話せるんだわ…。それに、ウォルフラムさんも。ぶっきらぼうな話し方だったのに、こんな格調高い文章を西の言葉で…)
自分がいたアイセリアとは、文化も常識も違う場所にいるのだと、改めて突きつけられた気がした。
「これが、その置き手紙にあった金貨さ」
リンダはそう言うと、懐からキラリと光るものを取り出し、テーブルに放った。
カチン、と硬質な音を立てて転がった金貨を、リナは思わず手に取る。
それはアークライト帝国の金貨で、そこには一人の青年の横顔が刻まれていた。
(この横顔、どこかで…そうだ、夢で見た人に、雰囲気が似ている…!確か、ルーク陛下とか…)
リナが息を呑んでいると、リンダが呆れたように言った。
「あの坊主の口の利き方からは、到底想像もつかない手紙だろう? それに、その金貨だ。高価すぎて、こんな辺境の街じゃ使い道もない。突き返してやりたいんだが…お前さん、あの子と何か繋がりはあるのかい?」
その言葉に、リナの頭は混乱した。
(一体、どういうこと…? 夢で見たルーク陛下みたいな金貨。それに、あのウォルフラムさんからは想像もつかない、丁寧な手紙…。なんだか夢と繋がっているみたい…)
そこまで考えて、リナはかぶりを振った。
(落ち着きなさい、リナ・エヴァハート。私は研究者よ。非科学的な憶測で結論を出すべきじゃない。夢は脳が見せる幻。金貨と手紙は、ただの偶然の一致。そこに因果関係があると考えるのは、あまりにも安易だわ)
考え込んでも答えは出ない。
リナは自分の状況を整理しようと努めた。
「すいません、彼とはここに来る前に偶然出会った仲で、あまり知らないんです。ここが彼の馴染みの地でないなら、恐らく私たちは転移の失敗で辿り着いたのでしょう。」
「へえ、転移事故だったのかい。あの坊主、何にも言いやしないんでアタシも敢えては聞かなかったんだ。良かったら聞いてもいいかい?」
リナは頷くと、これまでの経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
故郷アイセリアを旅立ったこと、海の上で難破船を見つけ、ウォルフラムと名乗る少年に出会ったこと。
そして、巨大な怪物クラーケンに飲み込まれ、咄嗟に試した転移魔法が恐らく暴走して、この砂漠に辿り着いたこと。
話し終える頃には、自分がいかに無力で、無謀だったかを改めて思い知らされ、リナは俯いてしまった。
そんな彼女の様子を見て、リンダはニヤリと笑うと、ポンとその背中を叩いた。
「うじうじしたって始まらないだろ!腹が減っては戦はできぬ、だ。まずは腹ごしらえして、それから街を案内してやるよ。ザハラは面白いもんで溢れてる。見れば少しは元気になるさ!」
「え、でも…」
「いいからいいから!アタシもちょうど買い出しに行くところだったんだ。案内ついでさ」
リンダの快活な声に背中を押されるように、リナは外に出た。
そこにはリナが想像もしなかった光景が広がっていた。
巨大な獣の骨で形作られた建物が立ち並び、色とりどりの布が日差しを遮るように張られている。
様々な人種が行き交い、活気に満ちた喧騒が街を包んでいた。
元の世界へ帰るための試練や、夢で見た光景のせいで気がかりなウォルフラムのことなど、気がかりは山積みだったが、リナは頭を振って思考を切り替える。
今、ここで一人で考え込んでも答えは出ない。
それよりも、まずは再出発の準備と、今置かれた状況を把握することが先決だ。
そのために、この街を知る必要があった。
市場の活気に目を輝かせるリナに、リンダは歩きながら説明を始めた。
「すごい…!市場に並んでいる素材は、全部このあたりのモンスターなんですか?私の知っている『魔物』とは、なんだか姿かたちが違うみたい…」
リナの問いに、リンダは頷く。
「魔物、ね。こっちで言う『モンスター』は、どっちかっていうと自然界の生き物がデカく、凶暴になったようなもんだ。竜やトカゲ、虫なんかが多いね。他所で魔物と言われるような、何がなんだか分からない姿のやつは、滅多にお目にかかれないよ」
「そうなんですね!生態系が全く違うんだわ…。じゃあ、リンダさんのように、そのモンスターを狩ることを専門にしている方々が?」
「ああ、アタシみたいな『ハンター』さ。ここザハラにはハンターを取りまとめる『ギルド』があってね。モンスターの討伐依頼を受けたり、素材を買い取ってもらったりして生計を立ててる。その素材がどうなるか、一番よく分かるところに案内してやるよ」
リンダがそう言って足を止めたのは、ザハラの街の喧騒から少し外れた一角にある工房だった。
一般的な鍛冶屋が放つ甲高い金属音や鉄の匂いの代わりに、そこから漂ってくるのは、乾いた骨を削る粉塵の匂いと、なめし革の薬品が混じった独特の香り。
「ここが、ザハラ一番の武器屋さ。アタシの武具の整備も、大体ここのオヤジに任せてる」
リンダに案内されて工房に足を踏み入れたリナは、息を呑んだ。
壁一面に掛けられているのは、鉄の剣ではない。
巨大なモンスターの爪をそのまま磨き上げた短剣、分厚い甲殻を削り出して作った盾、鋭い牙を何本も束ねて作った槍の穂先。
そこは、生命の痕跡が色濃く残る、獰猛で美しい武具の博物館のようだった。
「すごい…これが、全部モンスターの…」
リナは、まるで初めて見る絶景を発見したかのように目を輝かせると、壁に飾られた巨大なサソリの甲殻で作られた盾に吸い寄せられるように近づいた。
「リンダさん!この甲殻、表面は滑らかに研磨されていますが、内部構造が興味深いです。光の透過率から見て、おそらく衝撃を効率的に分散させるための多層構造になっていますね。私の故郷の防御魔法陣の理論と、一部共通する部分が見られます…!」
「ああ?よく分からんが、サンドクローラーの背中の部分だな。頑丈で軽いから、盾にはうってつけなのさ」
リンダが肩をすくめる横で、リナは今度はカウンターに置かれた、黒曜石のように黒く輝く大剣に釘付けになる。
「店主さん、失礼ですが、この剣の素材は?一見、ただの骨には見えません。非常に高い密度と硬度を有していると推測されますが、これほどの強度を維持しつつ、どうやって刃を形成しているのですか?特殊な薬品による溶解加工、あるいは超高周波振動による分子レベルでの切削処置でも…?」
工房の奥から現れた、腕の太いドワーフのような体躯の店主は、呆気に取られながらも言った。
「…嬢ちゃん、何言ってんだかさっぱり分からねえな」
彼は無骨な指でその大剣を撫でた。
「こいつは、ディアブロ・リザードの顎骨だ。あいつらの骨は、生まれつき黒鉄みてえに硬くてな。魔石を砕いた粉末を練り込んだ特製の砥石で、三日三晩かけて削り出すしかねえのさ」
「三日三晩!なんて非効率…いえ、素晴らしい職人技術です!ちなみに、その骨の硬度と靭性の比率は?破壊靭性試験のデータなどは…」
「はかいじんせい…?」
専門用語を早口でまくし立てるリナに、百戦錬磨のリンダと、頑固一徹の店主が、二人そろって顔を見合わせる。
しかし彼女は止まらない。
次に彼女の視線は、工房の壁に掛けられた一対の双剣に釘付けになった。
爬虫類の皮のような刀身に牙をつけたようなギザギザの刃先が、陽炎のように淡く、しかし確かに燃え上がっている。
「店主さん、あれは…!あの双剣、燃えてますよ!特殊な魔法の付与ですか?それとも素材自体の特性…!?」
「おお、嬢ちゃん、目が肥えてるな。ああ、そいつはそういう武器なのさ。元のモンスターが、この砂漠の先にあるフィニス火山をナワバリにしてるフィニス・サラマンダーでな。あいつは生まれつき火に耐性があって、自分の体内で燃える炎を武器にしちまう。活火山のマグマの中だって、水みたいにすいすい泳ぎやがるんだ」
今度は店主も自慢げに答えた。
リナは更に目を輝かせる。
「マグマを…!?なんて興味深い生態!融点や体組織の構造はどうなって…」
「……リナ」
リンダが呆れたように声をかけると、リナはハッと我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい!あまりに素晴らしい技術だったので、つい…!」
真っ赤になって謝るリナの姿に、店主は「がっはっは」と豪快に笑った。
「面白い嬢ちゃんだ!気に入った!持って行きな、そいつはサービスだ!」
店主がリナの手に握らせたのは、小さなトカゲの爪を磨いただけの、粗末なナイフだった。
しかし、リナはそれを、まるで希少な鉱石か何かのように両手で大切に受け取ると、キラキラした瞳で深く頭を下げる。
「ありがとうございます!最高の観測対象です!」
その言葉に、リンダは「やれやれ」と空を仰ぎ、でもその口元は、どこか楽しそうに綻んでいた。
彼女はこの短時間ですっかりリナを気に入り、娘ができたかのような愛着を覚えた。
隣に立っていた店主にこっそり耳打ちする。
「この娘、なかなか可愛いじゃないか。ウチの海王丸みたいだ。」
リンダの愛竜(アトラトル・ゲッコー)である海王丸の、ゴツゴツした鱗や無数の傷跡を思い浮かべ、店主は内心で首を捻る。
(…あの厳つい爬虫類と、この小さな少女がねえ。まったく、リンダさんの『可愛い』は、俺たちにゃ分からん感覚だ)
そんな和やかな空気を破ったのは、血相を変えて工房に駆け込んできた、一人の見張り兵だった。
「リンダさん! 大変です! 砂漠に見たこともない怪物が!」
血相を変えた見張りの男が駆け込んできた。
街に向かって進んでいるらしい。
「人型のモンスターだ。今出てる兵士じゃ歯が立たない!助けてくれ!」
「人型だって…!?」
このザハラで、そんな前例のない報告にリンダの顔色が変わる。
彼女はすぐに大剣を手に立ち上がった。
「ああ、黒い炎を纏った、悪魔のような見た目だった」
(黒い炎…?)
黒い炎、という言葉が、リナの心臓を鷲掴みにした。
忘れようとしていた悪夢の光景が、目の前に蘇る。
「私も行きます!」
リナの申し出に、リンダは眉をひそめる。
「やめときな。危険だよ、チビスケ」
「でも、ここのモンスターじゃないなら、何かわかるかもしれません!もちろん、足手纏いにならないよう距離をとります。」
リナの脳裏には、夢で見た黒いオーラを纏うウォルフラムの姿が焼き付いていた。
砂漠に駆けつけると、そこにいたのは紛れもなく、夢で見た「魔神」だった。
(本当に…)
嫌な予感が当たって、リナの緊張は増した。
リンダは対象を確認するなり相棒のアトラトル・ゲッコー「海王丸」を巧みに操り、ボウガンで攻撃を仕掛ける。
敵視を集めるのが上手いのか、それまで逃げ惑うザハラの兵を蹴散らしていた魔神は、すぐにリンダの元に飛んできた。
「行くよ!」
リンダは海王丸を巧みに操り、魔神に猛攻を仕掛ける。
一方、リナは恐怖に震えながらも、研究者としての本能が勝っていた。
彼女が開いた魔導書が傍に浮遊すると、リナは杖の先をそれに向け、冷静な声で記録を開始した。
「記録出力を開始します。現在時刻、15:40:03。記録。座標取得…成功、記録。正体不明の人型魔物と対峙。観測を続けます」
ヒットアンドアウェイで的確に攻撃を当てていくリンダだが、魔神の動きはそれを上回っていた。
リナは攻撃手段こそないが、箒の扱いは故郷一だ。
トリッキーな飛行で魔神をかく乱し、魔神が爪や魔弾の攻撃をリンダに当てそうになると、魔法陣のシールドで彼女を援護する。
「チビスケ、やるじゃないか。すごい機動力だ。それで?あれは知ってる怪物かい!?」
リンダが叫ぶ。
「まだ分かりません!」
リナは叫び返しながら、魔導書に目を落とし、冷静に分析を続ける。
「シールドへの被弾確認、魔力痕分析…。これは…少なくとも2種類の魔法のハイブリッドと考えられます。ひとつはアイセリアの魔法に類似する計算式が見られます。」
そこまで口にして、リナは目の前の光景にハッとする。
魔神が”あの剣”を召喚したのだ。
しかも、そこから見覚えのある剣技が繰り出される。
夢の光景と、目の前の現実が繋がっていく。
「リンダさん! あれは、多分…ウォルフラムさんかもしれません!」
「寝ぼけてんのかい!流石にそれはないだろう」
リンダはリナの言葉を一蹴する。
だが、リナは必死に続けた。
「あの剣…!転移前に彼が召喚した剣と特徴が一致します!」
「なるほど?そう言われてしまうと、あながち嘘だとも思えないのが癪に障るね。だが、仮に人間だとしても手加減できる相手じゃない!」
ただの獣ではない、まるで熟練の騎士のような洗練された剣技。
時折、空間に展開される魔法陣から放たれる予測不能な攻撃が、リンダを翻弄する。
それでも、リンダの百戦錬磨の経験が、魔神の攻撃パターンを捉え始めていた。
彼女は海王丸から飛び降りると、自ら囮となって魔神の凶刃を誘う。
紙一重。
肌を掠める黒い剣閃を、リンダは獣のような勘で的確に、何度も、何度も躱し続ける。
その度に、彼女の纏う闘気が増していく。
回避を力に転換する、ザハラのハンターだけが使う秘技。
そして、五度目の回避を終えた瞬間、リンダの大剣が淡い光を放った。
溜め込んだ力を全て解放する渾身の一撃が、魔神の胴を深々と薙ぐ。
リナは息を呑んだ。
魔神は肩から足の付け根まで寸断され、どう見ても致命傷だ。
もしもその正体が人間なら…と案じてしまうほどの凄まじい一撃だったが、深々と刻まれた傷は、黒いオーラと共に瞬く間に塞がってしまう。
(なんだってんだ、こいつは…!)
このアトラトル砂漠にも再生能力を持つモンスターはいる。
しかし、ここまで早い回復を見るのはリンダも初めてだ。
「再生速度、驚異的です…記録します」
リナは冷静に呟くと、仮説を確かめるように叫んだ。
「ウォルフラムさん!それがあなたの名前でしょう!?ウォルフラムさん!」
反応があるか確認したが、その声は届いてなさそうだ。
リナの声が届かなかったことに呼応するように、魔神の攻撃は激しさを増した。
それまでの剣技一辺倒だったパターンから、魔法陣を多用した遠距離攻撃へと切り替わる。
リンダは瞬時にその変化を察知すると、再び海王丸に飛び乗って距離を取った。
しかし、次々と繰り出される魔弾の雨を避けきれず、ついに海王丸が悲鳴をあげて倒れてしまった。
「こっちです!私を見てください!」
機動力を失ったリンダを援護しようと、リナが叫びながら魔神の頭上を飛び回る。
しかし、魔神は彼女に一瞥もくれず、ただリンダだけを殺そうと魔弾を放ち続けた。
(ターゲットに優先順位がある…?戦闘開始から私にはほとんど攻撃してこない…!)
リンダは即座に大剣を構え直し、飛来する魔弾を常人離れした膂力でことごとく弾き返していく。
しかし、その威力は一発一発が凄まじく、数発受けたところで、ついに大剣が衝撃に耐えきれず弾き飛ばされた。
その好機を、魔神が見逃すはずはなかった。
一瞬で距離を詰め、その刃を無防備なリンダに振り下ろす――その瞬間。
「やめなさいって、ば!」
ペチンッ!
場違いに軽い音が響く。
リナが無我夢中で放った平手打ちが、魔神の頬を捉えていた。
すると、あれほど荒れ狂っていた黒いオーラが嘘のように消え去り、元の姿に戻ったウォルフラムが、勢い余って砂の上に転がった。
服は破れ散り、今は何も身に着けていない。
砂の上に投げ出された白い肌が、痛々しいほどに無防備だった。
「「「え?」」」
ウォルフラムも、リナも、そしてリンダも、目の前の光景が信じられなかった。
リナは自分の手のひらを見つめ、呆然とした。
「ウォルフラムさん!」
その名を叫び、心配が他のすべてを上回ったリナは、彼の裸も構わず駆け寄った。
そして、助け起こそうと彼の手に触れた、その瞬間。
まるで奔流のように、彼の中から誰かの記憶――否、彼の悲痛な過去の情景が、リナの意識の中へとなだれ込んできたのだった。