02_旅立ち
雲海を眼下に望む、空に浮かぶ魔法使いの都市、アイセリア。
その片隅にあるリナの家の窓を、カツン、カツンと何かが叩いた。
今日で13歳になったリナ・エヴァハートが窓を開けると、そこにいたのは一羽の大きなカラスだった。
艶のある黒い嘴には、試練の塔の紋章が刻まれた蝋で封をされた、一通の羊皮紙の手紙が咥えられている。
待ちわびていた招待状の到着に、リナの心は期待に大きく膨らんだ。
招待状を手にしながら、リナは改めて胸に誓う。
この空中都市の呪いを解く方法を、必ず見つけ出すのだと。
そのための、これが第一歩なのだ。
「おめでとう、試練の案内だ。今日が誕生日ってことだよね」
カラスが言った。
「ええ、ありがとう」
リナは封筒を受け取ると、決意を固めるように、ぎゅっと胸の前で抱きしめた。
「お母さん、来たわ!試練の塔からの招待状よ!」
階下へ駆け下りていくリナを、母のナンシーは「そんなに慌てなくても、塔は逃げたりしないわよ」と穏やかな笑みで迎えた。
ナンシーはリナの好きな料理をたくさん用意しようと台所に立っていた。
今日は、年に一度の特別な日であり、それ以上にリナが待ち侘びていた日でもある。
「先に師匠に連絡してくる!」
「それがいいわね、夕食もう作り始めてるからちゃんとすぐ帰ってきてよ。今日は沢山作るわよ〜」
リナは師匠であり、都市きってのエリート魔法使いである叔母マチルダがいる、魔法研究所の所長室を訪れた。
「師匠、私です」
「入れ」
部屋に入るとマチルダは巨大な書架に囲まれた中、机の上に書類や魔道具を広げて報告書のチェック中のようだった。
「それで?もしかして、いよいよ招待状が届いたとか?」
誕生日に招待状が来ることはわかってるので、マチルダはすぐにリナの用件を言い当てた。
「はい。試練に行き、その足で世界を調べたいと思っています。私たちの結界を解除する手段を、外側から」
「ああ。そういう計画だ。認識に相違はない。しかし、顔に『不安です』と書いてあるな」
「わ、わかるんですか?」
「どうせ、『勉強はたくさんしたけど、本番で失敗したらどうしよう』なんて考えているのだろう」
図星だ。
そんな姪の姿に、彼女は大袈裟に笑った。
「はっはっは!心配性だな。問題ないさ。おまえは誰よりも努力してきただろう。落ち着いてやれば楽勝で合格するさ」
マチルダはリナが当然合格することを微塵も疑っていなかった。
「だいたいお前はこの研究所の調査部隊なんだぞ。塔の試練なんかより遥かに難しい基準をクリアしてここにいるんだ。私の贔屓で、所長の職権濫用で部下にした訳じゃあない。確かに魔力はなかなか伸びないが、知識や地道な努力でカバーしてきただろう。どうせ合格したら魔力は今の倍には引き出せるようになるんだ。そんなことより、合格した後のことを考えておくべきだ」
今度は真剣な顔になって続ける。
「何度も言うが試験に一発合格なら、呪いの15歳まで2年ある。2年の間にできる限りのことをやろう。こっちは試練なんかよりずっと難しい。結果を焦るなよ?我々の空の歴史は300年だ。おまえの2年が外部調査に使えたとして、簡単にいくとは思っていない」
「ごもっともです。それも不安なんです……」
「はっはっは!心配性なのは悪いことじゃない。不安の原因から目を背けず、自分が一番いいと思う選択をしろ。結果がどうなろうとその選択は正しい」
師匠が言う通り、私はただ魔法使いとしての試練を受けに行くのではない。
大昔、私たちの祖先は他国の戦火に巻き込まれ、逃れ、この空に安住の地を築いた。
伝説の大魔法使いアイセリア様が、その絶大な力で島を浮かせ、結界で閉ざしてくれたおかげで得られた平和だ。
でも、その結界はいつしか私たちを外の世界から隔絶する呪いになった。
15歳になれば、外に出た者は記憶を失ってしまう……。
呪いを解き、故郷を解放すること。
それが、私や師匠の夢。
家に帰ると、今度は父のサミュエルが深刻な顔で待ち構えていた。
手には、大きな荷物となぜか自分用の箒まで準備している。
「リナ、父さんも一緒に行こう!お前一人の旅なんて、心配で夜も眠れない!」
「何言ってるの、お父さん!」「あなた!」
サミュエルの言葉に、リナとナンシーは思わず同時に声を上げた。
彼の過保護は今に始まったことではないが、今日ばかりはリナも呆れてしまう。
「試練に1人で行かなきゃいけない決まりはないだろう」
熊のような大きな体で、寂しそうに両手を握り締め上目遣いをする父を見てリナはため息をつく。
「お父さん、これは私の試練よ。一人前になるための。一人前と認められに行こうというのに、親を連れて行くなんておかしいでしょう。そんなことになったら恥ずかしくて誰にも言えないわ」
「そうよ、あなた。それに安全な道があるとは言え、道を外れたら大人は呪いの影響を受けやすいでしょ!」
ナンシーにキッと睨まれてサミュエルは「わかったよ……」と頷いた。
これだから、リナはサミュエルには魔法研究所の仕事の計画を伝えていない。
試練からしばらく帰ってこないなんて伝えれば父に引き留められるのが目に見えていて、面倒なのだ。
リナの出発後、ナンシーから伝えてくれるだろう。
旅立ちの前の晩。
リナは家族に付き添われ、都市の中心、大結晶ティダーが鎮座する大祭壇へと向かった。
アイセリアの民が旅に出る前など様々な節目に行う「ウートゥンの儀」。
都市の礎そのものであるティダーの前で先祖の魂に祈りを捧げ、時に助言や祝福を授かる、神聖な儀式だ。
大祭壇は静かな光に満ちていた。
ティダーそのものが放つ淡い燐光が、天井の高い空間を幻想的に照らし出している。
両親に見守られながら、リナは一人で祭壇の前へと進み出た。
彼女はゆっくりと息を吸い込み、決意を込めて祭壇の水鏡にそっと触れる。
(ご先祖様方、どうか、私を応援していてください。試練に必ず合格して、この手で呪いを解き、人々を救いたい……!)
強く願うと、父サミュエルが後ろで詠唱を始めた。
すると、ティダーと共鳴するように水面が揺らぎ、人影がゆっくりと形作られていく。
先祖の魂が形を帯びて話しかけてくれることはよくある話だ。
しかしその風貌を見て、誰もが呆気にとられた。
(まさか……そんな……)
現れたのは、文献の中でしか見たことのない、ルビーの瞳。
真っ黒な髪をなびかせ、黒い服に包まれ、金の大きな杖を持った女性の姿。
間違いなく、300年前にこの地を救った伝説の大魔法使い。
リナが解こうとしている呪いの起源となった人物、その人だ。
「アイセリア・ルミナス様……!」
ティダーの記憶から呼び出された、過去の幻影。
リナは息を呑んだ。
研究資料として読み漁った記録の数々が、脳裏を駆け巡る。
直接聞きたいことが、山ほどある。
島を浮かせた経緯の詳細、呪いの効果の詳細、解除するにはどうしたらいい、この魔法がどうやってこの空での安全を保ってるのか――。
思考が渦を巻くが、声にならない。
ただ、目の前の神々しい存在に圧倒されるばかりだった。
後ろに立つ両親も、固唾を飲んで幻影を見守っている。
「そなたに祝福を」
幻影のアイセリアがリナに向かって手を差し伸べ、金の光を優しく放った。
荘厳な声が、しかし、不意にノイズ交じりに途切れた。
「……その呪いは……古き……欠片………試練……」
言葉は意味をなさず、アイセリアの姿は砂嵐のように掻き消えた。
「待ってください!聞きたいことが!どうか!」
リナが夢中に叫んだが、祭壇には元の静寂が戻ってくる。
「ルミナス様……?」
リナが不安げに両親を振り返る。
「古い記録だからでしょう。ティダーに蓄積されている大魔法使い様の記憶も、完璧ではないのよ」
ナンシーは優しく微笑んでみせたが、その顔にはかすかな憂いの色が浮かんでいた。
どんな祝福を受けたのか、はっきりとは分からなかった。
「祝福が来るとしたら、皆んなみたいに近い血縁の誰かが旅の安全を助けに来てくれるだろうと思ってた。まさか大魔法使い様が来てくれるなんて……」
リナが驚いていると、両親も頷いた。
「そうね、大魔法使い様が祝福をくれたんだもの。すごいことよ」
「そうだな。リナの努力を、大魔法使い様も認めてくれたのかもしれない」
翌日、旅立ちの準備を終えたリナは、出発前の時間を使って、最後にマチルダの研究所を訪れた。
調査部隊の一員として、昨夜の異例の事態を報告する義務があったからだ。
「――というわけで、アイセリア・ルミナス様が、私の儀に」
息を切らしながら報告するリナに、マチルダは鋭い視線を向けた。
いつもの冗談めかした態度は消え、研究者の顔になっている。
「ほう、ティダーのログに、あの大魔法使い本人の幻影が? しかも祝福と、意味の取れない断片的な言葉を?」
マチルダは魔法で宙に浮かせた羽ペンを走らせながら、矢継ぎ早に質問を重ねる。
「光の色は? 声のトーンは? 消える瞬間の粒子の動きは?その『呪い』『欠片』『試練』という単語、聞こえた順番も正確に思い出せ。これは事例のない貴重な体験談だ」
その迫力に気圧されながらも、リナは必死に記憶をたどり、詳細を伝えた。
「……面白い。実に面白い」
すべてを聞き終えたマチルダは、満足げに頷いた。
「おまえはとんでもないお土産を置いていくな。いいか、リナ。おまえの旅は、ただの試練ではなくなった。それはアイセリア様自身が遺した、300年来の謎解きでもある。どんな些細なことでも記録しろ。それが、おまえと、我々の故郷を救う鍵になるかもしれん」
マチルダの真剣な言葉に、リナはごくりと唾を飲んだ。
「……リナ。」
急に、静かなトーンでマチルダは続けた。
「…なんでしょうか?」
「お前に一つだけ、釘を刺しておくことがある」
マチルダはリナをまっすぐ見て、彼女の肩に両手をやった。
「お前が自分の体を削って編み出した、あの術式…。あれはまさしく禁じ手だ。私も人のことは言えんがな。あれは、お前の未来そのものを喰らう術だということを忘れるな。…いいな、絶対に使うんじゃないぞ」
それは、姪の身を心から案じる家族としての響きを持っていた。
「もちろんです。師匠。」
夜の帳が下り、空に星が瞬き始める頃。
リナは家の前で、最後の別れの時を迎えていた。
「リナ、これを」
父が、手ずから作ったというお守りを箒の柄につけてくれた。
青く丸いストーンがついてるアクセサリーのようなお守りだ。
「綺麗…。ありがとう」
母は何も言わず、ただ強くリナを抱きしめた。
その温もりが、昨夜から胸に引っかかっていた不安を、少しだけ溶かしてくれるようだった。
「絶対に、立派な魔法使いになって帰ってくるから!そして、必ず……!」
アイセリアを解放する、という言葉を飲み込み、リナは家族に最高の笑顔を見せた。
愛用の箒にまたがる。
人と比べると魔力が少なく、思うままに扱える魔法は少ないけれど、空を飛ぶ能力だけは誰にも負けない自信がある。
「行ってきます!」
箒がふわりと浮き上がり、見送る家族の姿が、そして愛しい故郷の街並みが小さくなっていく。
眼下に広がる雲の海と、どこまでも続く青い空に、リナの胸は期待と、そして昨夜生まれた小さな謎を抱えて、ドキドキと張り裂けそうだった。
(この空の向こうに、きっと答えはあるはず)
故郷の呪いを解く。その大きな夢への第一歩。
リナの旅は今、始まったばかりだった。
しかし、この旅が彼女を思いもよらぬ運命へと導くことを、まだ誰も知らなかった。